嫌われたくないは不自由(*´д`)o
こんにちは、みゆさんです ヾ(。>﹏<。)ノ゙
私たちはみな誰からも嫌われたくないと思う。
自分が嫌いだと思う相手でさえ、いざその人が自分のことが嫌いだと知ると、なんとなくそれが妥当だと思いながらも、ショックというか複雑な感情を抱くものだ。
しかし中には人に嫌われても気にしないという人もいるだろう。😎
そんな人も、別に自分からわざわざ嫌われたいと願っているわけではない。
出来たら多くの人に好かれたいと思うのが、私たちの多くの本音だと思う。
とはいえ、私たちの努力とは関係なく、自分のことを嫌う人は必ず一定数存在する。
私たちが他者から嫌われたくないという思いは人間にとって自然な欲望であり、衝動なのだという。
だから承認欲求も人間に備わった本能的な欲望なのである。🔥
しかしそういった私たちの自然の欲望や衝動のままに突き動かされて生きるのは、坂道を石のように転げ落ち、自分を摩耗させながら生きていくのと同じことなのだという。
それは本当の自由とはいえない。欲望や衝動の奴隷になってしまっていると言っていい。
ただただ人に嫌われたくない、承認されたいという一心で、転げ落ちて摩耗し、丸くなってしまった石ころのような自分が、本当の「わたし」と言えるのだろうか?
本当の自由とは、衝動や本能に抗うことである。🗽
ということは、「本当の自由とは、他者から嫌われることである」ということである。
誰かに嫌われているということは、私たちは自由を行使し、自由に生きている証であり、自らの方針にしたがって生きているということなのだという。
確かに社会を見てみると、どこにでも必ず嫌われがちな人というのは存在するが、どの人も自由に振る舞いながら、自分の思うように生きている人が多いような気がする。
周りからは自己中心的でワガママに見えたり、自分の言いたいことをはっきりと言い過ぎるような人が多いかもしれないが、確かに彼らは自由に生きているように見える。
しかし嫌われることは苦しいし悲しい、できれば皆に好かれたい、誰からも嫌われずに行きたい、承認されたい。😭
でもすべての人に嫌われないように生きるのは、不自由きわまりなく、同時に不可能なことである。
自由を行使したければ、そこにはコストが伴う。そして対人関係における自由のコストとは、他者に嫌われることなのである。
他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。
つまり自由になれないのである。
別にわざわざ嫌われるようなことをしろとか、悪行を働けといっているわけではない。
ただ嫌われることを怖れてはいけないということだ。👊
私たちのことを他人が好きになるか、嫌いになるかは、他人が決めることであり、こちらが決められることではない。相手の課題である。こちらの課題ではない。
「嫌われても別にいいや。自分がやりたいことをやろう」という風に生きられると、本当に心が解放されるだろうし、真の自由を感じられるかもしれない。
みゆさん (*´∀`*)
Amazon.co.jpアソシエイト