病みながら生きる人 |ω・)
こんにちは、みゆさんです (ㅎωㅎ*)
有名な文学作家や芸術家には精神疾患などで病みながら活躍している人がけっこういる。
そしてその病みと向き合い、その苦しみを昇華している人ほど後生に素晴らしい作品を残していることがある。
過去の記事で前述したが、「水玉の前衛芸術家」こと草間彌生さんは、自身が子供の頃から統合失調症を患っており、この病からくる怖ろしい幻覚・幻聴から自分の身を守るために、水玉の絵を描いたり、彫刻を作ったりしているというのは有名な話だ。
しかしご自分の病と共に生きながら、世界的な前衛芸術家として活躍して、今でもご健在である。
またあの有名文学である「坊ちゃん」や「我が輩は猫である」でお馴染みの夏目漱石は、「神経衰弱」だったことは特に有名で、定期的に幻聴や妄想に取り憑かれていて、「自分が下宿していたお寺の尼たちは自分を探偵している」と思い込んでいたり、英国留学中には下宿の姉妹が自分のことを見張ったり探偵を雇って跡をつけさせていると思い込んだり、英国人全体が自分を馬鹿にしていると考えたり、帰国後も夫人が女中たちを手下に使って小刀細工をしているとか、近所の千駄木の住人が自分に嫌がらせをしたり探偵をしていると思い込む症状があったという。
しかし長年に渡る「神経衰弱」の症状に苦しみ悩みながらも、それらと戦う決意をしたり、文学の作品へ昇華したりして、素晴らしい功績を残したことは確かだ。
個人的な趣味だと、ロックバンドの神聖かまってちゃんのフロントマンの「の子」さんは、双極性障害(躁うつ病)を持っていて、定期的に来るうつ期にはとても苦しんでいらっしゃるけれど、それでも精力的に音楽活動をされていて、全国津々浦々でライブ活動もされている。
精神疾患で生きることはとてもツラくて苦しいイメージがあるのは確かだが、どうもそれだけではないようだ。病みながら生きることの素晴らしい点を以下に紹介したいと思う:
日常的な義務から解放されて休養ができる
社交や世間体等のために費やす時間が減る
行動が制限される分、孤独で内省的になり、感覚的にも敏感、繊細になる
これまでの生き方を振り返って、自分の人生で真に大切なものを考える機会になる。
病気をそれまでの生き方に対する警告として受け止め、健康管理に気をつけるなど、自分にとって無理の少ない生き方が出来るようになる。(一病息災的な生き方)
現実からの距離が取れて、世俗的な価値観を相対化できる。
様々な可能性が限定されるために、一点に努力を集中させることができる。
人生の価値や生きることの意味に対して複眼的、かつ非競争的な思考ができるようになり、これまでつまらないと見過ごしてきたことにも新しい意味や価値を見いだす。
人生に対する過大な要求が減り、生きている事自体が素晴らしいと感じられる。
周囲からの期待が減り、自分本来の道に専念できる。
自分の限界や弱点を認識して謙虚になり、自分が周囲の支援や犠牲のもとで生かされていることに感謝できるようになる。
人生の悲劇的な部分に対する認識が深まるとともに、病を乗り越えることで自信ができ、人生の困難や不条理に対する耐性ができる。
自分が死すべき存在であることを実感して、仕事の完成に情熱を注ぐ。
他の病者や弱者に共感的になり、治療的な態度が取れるようになる。
いわゆるマイノリティー(少数者)としての立場からの発言や活動ができるようになる。
このほかにも、病や障害によってもたらされた心身の極限状態が、脳の活動を刺激し、飛躍的な創造につながることもあるだろうし、逆に病むことで周囲から同情されたり注目されるために(疾病利得)を求めるような歪んだ心理が生じる場合もあるだろう。また”修善寺の大患”(胃潰瘍の出血)後の漱石のように、場合によっては死を受け入れやすくなることもあるだろうが、いずれにしても人間は、病や障害という苦難を体験することによっても、成長する可能性がある存在なのであり、そこに病みながら生きる者が畏敬の対象たり得る理由もあるのだという。
(心理学教材、放送大学出版参照)
そりゃあもっと楽天的に鈍感に生きられて、ちょっとしたことがあっても「まあいいかあ」ってこだわりなく生きられるのなら、こっちの方が断然楽に楽しく生きられるかもしれない。
しかし、繊細に生まれてしまった以上はその性質と付き合いながら一生を送るしかないのだ。
病みながら生きることも悪くないのかも、と思えるようになった。
みゆさん (ΦωΦ)
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