一度死んだつもりで生きていくこと (・ω・)
こんにちは、みゆさんです (。・ω・。)
昨日は、なぜ毎日生きているのがつまらないのか?それは目的がないからだ、そして目的を探すには自分がほんとうは何が好きなのかをわかっていなければならない、と書きました。
しかし、それすらもわからない。もう何をするにも気力がない。体力不足と分かっていても、気持ちが落ち込みすぎていて、とても運動なんて出来ない。外を歩くことさえ出来ない、という人もかなりいるようである。
実際にガールズちゃんねるや2ちゃん(現:5ちゃん)などのネット掲示板には「生きるのが疲れた」「消えてしまいたい」「明日の朝どうか目が覚めませんように」「毎日ただ生きているだけ、もう死にたい」「自分なんて生きてたって仕方がない」などのコメントで溢れかえっており、そのテーマについてのスレッドがひじょうに多く立っている。
しかし、彼らの中で共通する気持ちは「でも自分で死ぬ勇気がない」ということである。
そりゃそうだろう。自分で死ぬなんて怖くってできるはずがない。
だって私たちは生物としては「死にたくない」わけだから。
生きたくなくたって生きなければならない、それが私たちである。
私たち人は睡眠と共に今日の自分が死に、次の朝に新しい自分として生まれ変わっていると言われている。
そんなことを言われても、昨日と同じ自分じゃないか!と思ってしまうのは、昨日の記憶が引き継がれているからだ。
私たちは自分の人生から逃げることは不可能である。
それならば、もう自分は一度完全に死んだと思って、自我も捨てて、淡々と死にながら生きる、または生きながら死んだように、人生を送ったらどうだろう?
肉体はまだ生きてしまっているが、精神、心はすでに死んでいる状態で、「自分」という概念を捨てて、ただ今この瞬間にやるべきことだけに集中して、命をまっとうするまで、それを継続する。
「自分」が持っていたこだわりとか、好き嫌いとか、理想とか、恥じていたこととか、それらはすべて葬り去り、一度死んだ「なんでもない存在」として生きていくといいだろう。
つまり「無」になるということだ。🙏
今している動きの1つ1つにただ意識を向ける。
歩くときも、右足を出して、左足を出して…と実況するように歩き、食器を洗う時も、スポンジに洗剤をつけて、蛇口のタップを上げて水を出し、スポンジを水で濡らし、泡を立て、片手でお皿を持ち、スポンジでまず内側を磨く…と実況するように作業をするなど、動きの一挙手一投足に集中して意識を向けるのだ。
余計なことは何も考えず、雑念を持たない。
「自分」という存在を忘れて「無」の存在として生きる。
そうすれば、他人からどう思われているかとか、恥ずかしいとか寂しいとか孤独だとか思う必要は一切なくなる。
死にながら生きているということは、もうそこには自我はないわけだから、自我があることで苦しんでいた自分から解放されるという点で、私たちは楽になり、真に自由になれるということだ。🍀
だからもう、生きてるけど死んでる、死んでるけど生きてる、というマインドで日々を生きればいいのである。
みゆさん (=゚ω゚)ノ
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