「私」とはいったいなあに? (・Д・`)
こんにちは、みゆさんです (・Д・`)
人が不安になったり悩みを抱えすぎているとき、ものごとの視点がすべて自分向きになっている。
人は自分のことを考えすぎているときに行き詰まるものだ。
自分とは「私」のことである。👇
「私」とはそもそも何なのだろうか?
私たちはなんの抵抗もなく自明のこととして「私」という言葉を使っているが、私たちは「私」についてどれだけ知っているのだろうか?
インドの説話に次のような話がある。
ある旅人が空き家で一夜を明かしていると、1匹の鬼が死骸を担いでそこへやってくる。そこへもう1匹の鬼が来て死骸の取り合いになるが、いったいどちらのものなのかを聞いてみようと、旅人に尋ねかける。旅人は恐ろしかったがしかたなく、前の鬼が担いできたと言うと、後の鬼が怒って旅人の手を引き抜いて床に投げつけた。
前の鬼は同情して死骸の手を持ってきて代わりに付けてくれた。後の鬼は怒って足を抜くと、また前の鬼が死骸の足をくっつける。このようにして旅人と死骸の体がすっかり入れ替わってしまった。2匹の鬼はそこで争いを止めて、死骸を半分ずつ食って出て行ってしまった。驚いたのは旅人である。今ここに生きている自分は、いったいほんとうの自分であろうかと考え出すと訳が分からなくなってしまうのである。
この話は「私」というものの不可解さをうまく言いあらわしている。
自分の体の頭からつま先まで全部変ってしまったとしても、まだ自分を「私」だと言えるのだろうか?
この話では体のことになっているが、たとえば私たちは職業を変えても私は私と思うだろうし、住居を変えても私には変わりがないだろう。
しかしそのようにして、自分にそなわっているものを次々とすててしまって、そこに「私」というものが残るのだろうか?
仏教には、森羅万象はすべて別の何かと関係することで初めて存在するという「縁起」という考え方があるが、「私」という概念はそれ自体個別では存在しないとされている。
「私」とは日本人である→日本という国に属しているという私である
「私」とは背が高く黒髪である→何かと比較や区別をすることで背が高いとか髪が黒いと言っている
「私」とは人見知りで頑固である→これもやはり誰かの性格と比較して言えることだ
つまり、他の存在があってこその「私」なのである。
私個人ではこの仏教の考え方が腑に落ちると思っている。
他との関係性なしに自分単体だけの存在はありえないと思う。
そう思うと明らかな自分「私」などないのだと思えば、それほど自分の人生というものについて思い悩む必要などないのかもしれない。
極端なことを言えば、1年前の自分と今日の自分では、体内の細胞が殆入れ変ってしまっているわけだし、それが果たして同じ「私」なのかというと、100%自信を持って言えないかもしれない。
もし親も兄弟も亡くなり、日本での仕事も辞め、海外へ移住し、その国で仕事をし、その国の人と結婚し家族を持ち、何らかの理由で生まれ育った祖国が崩壊し無くなってしまったとしたら、その自分は日本にいたころの自分と同じ「私」だと言えるだろうか?
もしそれでも「私」は生まれたときからずっと変らず「私」と言えるならば、それは記憶を持ち続けているからに他ならない。
しかし人間の記憶というのはかなり曖昧なもので、欠落しやすく、維持するのもむずかしいもので、その時々によって都合のいいように歪めねつ造する。
今覚えている記憶だって、当時のことと一点も変らず間違いなく覚えているなどと、決して言えるようなものではない。
深層心理学において、人は意識の上では「私」と「あなた」を明確に区別できているが、潜在意識の奥深くへ行けば行くほど、「私」と「あなた」の境界線が薄くなり、無意識の層では自分と他人の区別がなくなるという。
「私」にこだわりすぎると苦しい。
「私」にそれほどこだわらなければ、「その日一日を何ごともなく生きられればとりあえず合格か」と気楽にかまえて生きていける。
今の自分にはそれが必要な気がする。
みゆさん (・Д・`)
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