逸脱とみなすこと、みなされること (´-`).。oO
こんにちは、みゆさんです (-_-)zzz
この国では世界の他の国に比べると、女性の社長とか管理職とか政治家の数がとても少ないというニュースをよく耳にする。
しかし昔に比べれば、日本も男女の性差はだいぶ縮まったんじゃないかと思っている。
たぶん昔がひどかったのだと思う。😑
1970年代くらいまでの日本の社会では、女性は「女性性」や「女らしさ」を保有していなければならず、男性は「男性性」や「男らしさ」を保有していることを、あたりまえのように求められていた。
日本人の無意識には、男女ともに求められる性別規範があり、その求められる性別規範にそぐわない人間は、逸脱とみなし、みなされていたのだ。
たとえば男らしさの定義として、男は偉い、男は強い、だから男は苦労し、時に損をする。男だったら泣いてはいけない、稼げ、強くいろ、女々しい真似はするな、などがあった。
女性だけではなく、男らしさの規範により、男性も抑圧されていた存在であった
反対に世間が期待する女らしさとは、従順、はにかみ屋、情愛細やか、忠実、思いやりがある、人の気持ちを汲んで理解する、優しいなどであった。
また身体的特徴として、男性と比べて背が低い、かわいい、筋力が弱い。
学習領域では、語学が得意、理系科目が苦手などがある。
はっきりいって、完全な思い込みである。😩 他にも、
”男らしさ”の特性
自分の判断や能力を信じている
自分の信念を曲げない
独立心がある
分析的
リーダーとしての能力を備えている
意思決定が速やかにできる
競争心がある
”女らしさ”の特性
従順な
はにかみ屋の
情愛細やかな
忠実な
困っている人への思いやりがある
人の気持ちを汲んで理解する
優しい
まったくのステレオタイプである。そして幻想に他ならない。🌷
現実は上記の男女の特徴がそっくりそのまま逆転している人たちもたくさんいるだろう。
しかし現在でも保守的なおじ様たちやおば様たちのなかには、このような考え方をまだ根強くもっている人も多くいる。
そしてこのステレオタイプから外れる、多様なジェンダーアイデンティティを持つ人々を逸脱とみなし、社会から除外しようとする。
これはLGBTQに限らず、適齢期になってもまだ未婚の男女に対しても、そのようなレッテル貼りをする傾向がある。
以前に通信教育で資格取得のために学んでいたときの社会学の教材に、けっこう酷い話があったので紹介しよう。
体を洗えない男
アフリカのある集落を訪ねた研究者は、道すがら、みすぼらしく、薄汚れ、臭気を漂わせる1人の中年の男とすれ違う。男は研究者たちのグループを避けるように、道の端を悄然とした様子で歩き去っていった。研究者が、現地の通訳のものに、なぜあの男はあのように薄汚れているのかと問うたところ、あいつは独り者だからだと、言う答えが返ってきた。
その集落では男は自分の体を消して自分自身では洗わないのである。小さい男の子も年老いた男も皆自分では洗わず、女の人に洗ってもらっている。子供のころは母親が、あるいは年上の女の姉妹が、体を洗ってくれる。結婚すれば妻が洗ってくれる。結婚した女は、夫と子供の体は洗うが、実家の男の兄弟の体は洗わない。
母親が死に、姉も妹も結婚してしまい、未婚のまま取り残された男は決して自分の体を自分で洗えないのである。どこか遠くの川や湖へ行って村人の目の届かないところで密かに洗ってしまえば良いではないかと、異なる文化に生きる私たちはついそう思ってしまう。しかし男は洗わないで生き続けている。薄汚れ、臭気を漂わせ、道の片隅を歩くしかなくとも、男は生き続けている。
引用元:(放送大学、社会学入門)
なんとも残酷な悲しい話だと思った。😭
20世紀前半の時代、アフリカの部族社会だけでなく、伝統的社会では、未婚の男は、社会の1人米の船員と認められないことが多く見られたそうなのだ。
日本でも明治時代くらいまでの村の集落では、嫁に行けなかった娘は一家の恥になるから、家の奥の座敷牢に閉じ込められたり、屋根裏部屋に住まわされていたという話を聞いたことがある。
現代社会に生まれて本当によかった。
多様性をもっと広く受け入れられる世の中になってきた現代、私たちはむかしに比べたらずっと自由に生きられるようになった。
文化的に人間は成熟していくべきなのである。
みゆさん ( *`ω´)
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