アイデンティティ(自我同一性)の達成 ヽ(´ー`)
こんにちは、みゆさんです (・ω・)ノ
今日はすこし発達心理学のお話をしてみようと思う。
勉強したことの一部のおさらいみたいなものである。🎒
自我同一性(ego-identity) は、自分が自分であること、自分らしさ、あるいは私は私であって、私以外の他者とは異なる存在であることで、自分とは何か?という問いに対するひとつの回答である。
発達心理学者の巨人、エリクソンによれば、こうしたアイデンティティーの感覚とは、自分は他の誰とも違う私自身であり、私は1人しかいないという感覚と、今までの私もずっと私であり、今の私も、そしてこれからの私もずっと私であり続けると言う連続性の感覚からなるものだとされている。
このような感覚を持った主体的な私が、社会の中で認められた自分の地位、役割、職業、身分などの「~としての自分」と言う感覚に合致して、安定感、安心感、自信を持ち「私が私である実感」を形成するといわれている。
アイデンティティーの確立を最も求められるのは青年期であり、自分を確立していけるアイデンティティーの達成になるのか、それとも自らを見失い混乱していくアイデンティティー拡散になってしまうのかが決まる危機的段階であるようだ。
青年期には自分の一生について決めなくてはならない様々な問題に直面することになる。
進学就職を含めた進路の問題、友人関係や異性との関係、さらには人生観、価値観などの問題がある。
こうした問題のそれぞれに、青年は意思決定を迫られ、自分自身で決定を下していかなくてはならない。
こうした危機を経験しながら、その問題に積極的に関与し、次第に自分自身のアイデンティティーを形成していく。
しかし同一性形成そのものは、青年期だけではなく、その大半が生涯にわたって続く無意識的な発達過程である。
自我同一性への発達の段階は乳幼児からすでに始まるといわれている。
乳児期は、「基本的信頼」対「不信感」の危機である。母子関係を通じて身体の安全と基本的な信頼感が獲得される。
ここが上手くいかないと、人間に対して信頼が出来ない大人になる。
早期幼児期は、「自律性」対「恥・疑惑」の危機である。周囲の環境と自己統制との関連の中で、羞恥心や自己の価値に対する疑惑が生じる一方、しつけを通して自律性が芽生える。
この段階でつまずくと、つねに自分は恥ずかしい存在であるという気持ちを持つような大人になるんではないだろうか。
遊戯期は、「主導性」対「罪悪感」の危機である。幼児期後期において、自主性・積極性の獲得と罪悪感の克服が、家族関係の中でなされる。
ここで上手く乗り越えられないと、自主的に生きることに罪悪感を覚えるから、いつも人のいいなりで受け身の人生になりがちになるのかもしれない。
学童期は「生産性」対「劣等感」の危機である。児童期において勤勉感の獲得と劣等感の克服が学校や近隣関係の中でなされる。
ここで劣等感を克服できないと、大人になっても自分は何をやってもダメな人間だと思い込むようになるのだと思う。
青年期は「アイデンティティー達成」対「アイデンティティー拡散」の危機であり、自我同一性の獲得と役割の混乱が見られる。
あれもこれもと手をつけすぎて、本当は自分が何をやるべきなのかを大人になってもわかっていない人は、この時期につまずいている可能性がある。
初期成人期は、「親密さ」対「孤立」の危機である。友情・性愛、競争や協力によって自分を他人の中に見失い、また発見することによって、親密感の確立と孤立感の克服がなされる。
この時期に危機を乗り越えられないと、他人と親密な関係を築きにくく、結婚や人生のパートナーの得ることがむずかしくなるのかもしれない。
成人期は「生殖性」対「自己吸収」の危機である。次の世代を産み育て、世話をし、導くといった、生産性・生殖性(世代継承性)の確立と停滞感の回避が生じる。
この危機を乗り越えられないと、次世代の若者にいろんなことを譲ることができず、いつまでも自分は若者の気分でいるイタい大人になるんじゃないだろうか。
成熟期は「統合性」対「嫌悪・絶望」の危機である。あるがままに世界と自己を受け入れ、自己と人間としての英智を獲得し、自我統合感の確立と絶望感の回避がなされる。
ここが上手くいかないと、孤独な老人になってしまうのかもしれない。
私自身は長年、一番最初の乳児期の危機である「基本的信頼」を達成できていなかったと思う。
だから人間というものに対する基本的な信頼が欠如していたんだと思う。
みなさんも是非、自我同一性への発達において、ご自分が一体どこの段階でつまずいているのか、考えてみるのもいいと思う。
みゆさん (・ω・)ノ
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