概念で決めつけられない、「個の自分」という存在感( ✌︎'ω')✌︎
こんにちは、みゆさんです(〃ω〃)
私たちは、ある特定の一括りの概念で他人を見るし、反対にそう見られてしまう。
子供、女子高生、お爺さん、お婆さんなどは、そのような概念で一括りにされてしまいがちだ。
お子さん連れの女性に対しては、私たちは「お母さん」と見るし、男性だったら「お父さん」だし、夫婦でいたら「奥さん」と「旦那さん」だし。
しかし、これらのどこにもあてはまらない、どこにも属さない人もいて、そのような人は「〜の妻」とか「〜のお母さん」ではなく、個人の「〇〇花子」でしかない。
芸能人は特に個の存在が大きく、例えば芦田愛菜ちゃんとか鈴木福くんなんかは、今は大きくなってしまったが、子役のときは「子供」ではなく、昔から個人の「芦田愛菜ちゃん」「鈴木福くん」という概念であったと思う。
例えば女優の吉永小百合さんや亡くなられた樹木希林さんなどは、おばあちゃんではなく、概念は「吉永小百合」「樹木希林」であると思う。
私が尊敬してやまない美輪明宏さんなんて、もう「美輪さん」でしかなく、おばさんでもおじさんでもないし、男とか女の概念がない。
YOSHIKIさんだって同じで、年齢的にはおじさんなのに、おじさんではなく、お父さんでもなく、男でもなく、「YOSHIKI」なのである。
どこの概念のグループにも属さない人間は、ぼっちでありさみしい人間、と思う人もいるかもしれない。
しかし、それでもどこにも括られない個人の存在には憧れがある。
個人にこだわるのは抽象度の低い考えなのだと思う。
でもやっぱりいいなと思うから、究極的には目指していきたいと思う。
みゆさん(*゚∀゚*)