落ち込みは時に娯楽になる |_・)
こんばんは、みゆさんです ( ꒪⌓꒪)
以前の記事でネガティブには中毒性があると書いたことがある。
私は若い頃は非常に落ち込みやすく、いつもなにか些細なことがあるとすごく気にするし、それについて思い悩んでいたことが多かった。
落ち込んで「どうせ私なんて」とふさぎ込み、暗い表情をし、悲しみにくれている状態は、自分が悲劇のヒロインのように思い、自己陶酔しているとも言える。
苦しくて悲しくてやるせなくてどうしようもないときは、昔はよく1枚の紙に自分の思いのすべてを書きなぐっていた。
そして音楽をひたすら聴いていた。中島みゆきの曲を流していた時もあったが、やはり大ファンだったイエロー・モンキーの曲は落ち込んだときには欠かせない曲だったことは間違いない。
落ち込んで悲しみにくれるのは苦しいし辛い。
自己否定するというのはとても辛いものだ。
しかし「どうせ、どうせ、、」と自分を責め、自分を貶め、悲しみに暮れ、怒ったり泣いたりするということには案外娯楽性があり、心のどこかでじつは自分はその状況を楽しんでいるんじゃないか?と思うことがある。
何かで落ち込んでショボンとしたとき、それを悲しむときに、カタルシス(心の浄化作用)が起きるのではないかと思う。
だから散々なにかに落ち込んで落ち込み切った後というのは、その反動で元気がでることが多いし、また頑張ってやってみようという気になりやすいと思う。
「どうせ自分なんてこんなもんだし」と一種のあきらめがつくみたいな感じにもなるから、気持ちが少し楽になるのだろう。
認知機能学者の苫米地英人博士が「感情は娯楽である」と言っていた。
それは現代社会の人間は、本来ならば生きていくために喜怒哀楽の感情は必要なく、文化的に豊かに生きていくための娯楽にすぎないからだという。
私たちに何かが起こったときに、やるべきことは問題解決だけであり、感情というのは本来は問題には関係のないものだ。
しかし私たちはドラマチックに生きたい人間だから、自己表現したいし、「自分が何者かである」と実感したいし、それだから感情を持ちだして、悲しみ落ち込み悩みながら自分という人生の主役を盛り上げ、「遊んでいる」と言ったらよくない言い方かもしれないけれど、楽しんでいるというのは確かなのである。
ドライなことを言ってしまっているかもしれないけれど、所詮人間なんてこんなものである。
けれども日常生活に支障がでない程度ならば、ネガティブな感情でも味わって、生活に情緒的なエッセンスを加えるというのは決して悪くないことだと思う。
ただしあまりにも落ち込みの度合いが激しく、とても元の生活に戻れないくらいのレベルならば、ぜひとも専門家や医師に相談するべきである。病気による原因もありえるからである。
みゆさん (*´д`)o
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