歩くために歩く ( •ω•ฅ)
こんにちは、みゆさんです (´-д-`)
わたしたち生きている人間にとっての最終目的は「死」である。
少し宗教的だと思うかもしれないけれど、実際はそうである。
そしてこうして生きている毎日は、その目的へ向かう途中の過程であり、そこを意識して生きることが「人生」なのだという。
苫米地英人博士の著書の中にこのような文章があった:
釈迦にまつわるこんな話があります。
釈迦は、弟子たちとともに、北インド地方を歩き続けました。北インドには雨期があり、道が泥沼のようになるため、その時期だけは精舎にこもっていたのですが、それ以外はずっと歩き続けていました。釈迦は布教というよりは、自らの悟りを目指していましたから、歩きまわることに大きな意味は無いはずです。もちろん、目的地もありません。ある時、弟子が釈迦に尋ねました。「いったい私たちは何のためにどこを目指して歩いているのでしょうか」釈迦はこう言いました。「歩くために歩いている」つまり、歩くことそのものが目的だと言うわけです。
これは現代でいうと「ドライブに行こう」というのと同じことで、「ドライブに行こう」だとドライブそのものを楽しむことであり、一応は江ノ島とかお台場とか目的地は決めるんだけれど、ドライブという途中の過程を楽しむことが目的なのである。
それと同じように人生というのも、最終目的地に到着することが目的なのではなく、「人生を生きること」なのだから、その時間を目一杯楽しんだほうがいいということだ。
お釈迦様がいった「歩くために歩く」とは「生きるために生きよ」という意味なのである。
それには今、生きているということをしっかりと意識に上げることが大切なのだという。
呼吸をしている、自分のその呼吸を意識にあげる。歩くときも足の裏が地面につく一歩一歩を意識に上げる。ごはんを食べるときも、ごはんの味、におい、温度、色、歯ごたえなどを意識にあげるということである。
ちゃんと今やっていることを意識する。それだけで私たちはちゃんと生きているということであり、それならば普通にただ暮らしているだけだって、ちゃんと人生の過程にいるということだ。
だから例え引きこもっていて毎日家にいるのだって、そこでのすべての自分の動きを意識にあげて生活しているならば、それも確実な人生ということだ。
また自分の行為を意識に上げるというのは、自分という自我の外側から自分を見ることである。
それには高い視点から、高い抽象度で俯瞰して見るようになるのだから、覚醒状態になるのだという。
このように自分の行為一つ一つを意識に上げるように心掛けるだけで、生きているという実感をより強く感じられ、覚醒を実感できるというから、私も時々あてもなく近所に歩きに出かけることがあるので、ただ歩きながらも、一歩一歩の足取りや、呼吸などを意識に上げていこうと思う。
みゆさん (。・ω・。)
Amazon.co.jpアソシエイト